何が正しいのかなんて、その時には決して分からないけど

選択というのはいつも難しい。
それが大きくても、小さくても。
 
例えば誰かが「頭が痛い」と言い出したとしよう。
他人から見れば本当に痛い場所を判別するのは難しいだろう。
勿論、この例で言えば痛いと言っている頭部を検査する方法はある。
MRI検査やCTをとれば異常があるかどうか分かるだろう。
それでも分からなければ他の検査をすればいい。
でも…
 
全ての検査を行っても異常が見つからなかったとしたら?
 
本人は痛いと主張する。でも異常は見つからない。
この時点で仮病だ、詐病だと切り捨てることも出来る。
「それはお前の嘘だ」「思い込みで痛いんだ」
そう言ってしまう事は簡単だ。
けれど、それでいいんだろうか?
本当にその人が痛いのなら、その選択はあまりにも残酷だ。
じゃあどうすればいいのだろう?
他にも有効な検査がないか考えようか。
今までの検査結果に間違いがないか調べようか。
本人の主張に沿って、少しでも効果のありそうな治療を施そうか。
知り得る全てを使って原因を探し、改善に努めることも出来る。
 
見捨てるのか、助ける努力をするのか。
こういう話であれば後者を選択する人は多いのではないだろうか。
 
では頭部の痛みを訴える本人が痛みを訴えながらも
検査や治療に協力的ではない場合は?
本人から治りたい意思を感じられないとしたら?
 
此処でまた選択をしなければいけない。
痛みを訴えながらも治そうとしない人の治療を
続けるのか、止めるのか。
 
続ければ、回復して喜ばれるのかもしれない。
余計なことを、と憎しみの眼差しを向けられるのかもしれない。
 
止めれば、ここで見捨てるのかと罵られるかもしれない。
もう厄介な検査や治療をせずに済むと感謝されるのかもしれない。
 
何が正しいのかなんて、きっとずっと後にならなければ分からない。
 
選択しなければならない場面は何度もやってくるだろう。
回数を重ねるごとに複雑になっていくかもしれない。
優しくありたいと思えば困難な選択肢を選び取ることになるだろうが
人である以上は体力も知力も時間も心の余裕というのも無尽蔵なわけではない。
どんなに優しくありたくても、有限である以上は何処かで選択を強いられるのだ。
そして、その選択そのものも回答をずっと待ってくれたりはしない。
 
踏み込んだその道の先で分かれていく未来。
迷うことは多々あるだろうけれど、掴んだ選択肢に言い訳はしたくない。
それはその時に自分が考え抜いた最良である筈だから。
そこに踏み込んでいく時には、選択する"覚悟"を持ちたいと思う。
 
 
※注意 ここで挙げた例については医学的に正しいことを書いたわけではないので
 そこら辺を鵜呑みにしたり突っ込んだりしないように。